笑って死にたい。
ネットサーフィンをしていて
「ないものばかりに目を向けて不満を持つのではなく,今あることに目を向けて自分の幸せに気が付きましょう!」
...みたいな事が書かれていました。
モヤッとしました。
確かにそうなのかもしれませんが、今の私には受け入れられませんでした。
大好きな家族と暮らし、みんな元気で、狭い賃貸住宅ですが住める所もあり、確かに幸せです。
でも、今の自分のまま生きていくのはもう嫌だと思っています。耐えられません。
欲張りと言われればそうかもしれません。
でも、
人の顔色を伺いながら、
言葉を選びながら、
本当の自分の気持ちが言えないまま、
言いたい事が言えないまま、
当たり障りのない言葉ばかりを選びながら、
...
生きていくのはもうごめんだ! と思ってます。
じゃあ、なりたいように生きればいいのだけど、これがまた恐くて、恐くて、恐くて、なかなか言葉が出てこない。
でも、このままだったら死を迎える時に後悔するでしょう。
反対に、変わって生き生きと言いたい事を言って生きていけたら、きっと笑って死ねるだろう、と思います。
だから、どうしても笑って死にたいので、その思いだけは書いておきます。
始まり
最近、ようやく自分の夢について考えてます。
夢の一つは「ショボさ選手権」をやる事です。
ショボさなら任せとけ!ショボさ誰にも負けないもんねー!こんなショボい事でめちゃめちゃ落ち込んでまーす!という人を集めてやってみたいです。
ショボすぎて人には言えない事を吐き出して、あ~スッキリした!と言えるような、公衆トイレ的な事をやってみたい。
私は、人前で「私は何故かいつも不安です。自分が大嫌いです。」とぽろっと言葉にして吐き出せた時、涙が出てきました。
そこが始まりだったような気がしています。
何の始まりかは、言語化できませんが、自分のタマシイのような物の「助けて」という言葉に、初めて素直に身体が反応してあげられたような気がしてます。
「ショボさ選手権」で、誰かの始まりのきっかけ...まではならないにしても、始まりのホップ・ステップ・ジャンプの中の「ホップ」の役を担えたら最高だな、と思います。
子供のように生きる
今日は実家に行き、私の子供と、私の弟の子供とで遊ばせていました。
いつもなんですが、仲良く遊んでいたかと思ったら、次の瞬間にはケンカになっていて、おもちゃの取り合いで、今に血が流れるのではと思える程の、本気の真剣勝負です。でも、そのまた次の瞬間にはケタケタ笑っていたり...。
見てたら面白い。(ハラハラもします(笑))
どんなにケンカして泣いたとしても、帰る時には、なごり惜しそうに「またね」と言って、タッチでお別れです。
お別れの後は、寂しがり続けるのかと思えば、恒例となったお土産の”海苔もち”をおばあちゃんからもらって「ワーイ!」と言って車に乗り込みます。
切り替えが早いです。
すごいな、と思います。
私は「怒り」とか「悲しみ」という感情を人前で出すのが苦手です。
特に「怒り」の方は大の苦手です。
人とぶつかるのが恐いんです。
だから、人とぶつからないように、自分を下に下に置いてきました。
でも、人とぶつからなくなる代わりに、自分というものがわからなくなってきました。
そして、どうしたらいいかわからなくなって、取り敢えず笑っとけ、ってなって、変な愛想笑いをするようになったのでしょう。
子供達の、一瞬一瞬、感情を出しきり、最後は「またね」と言って別れる姿は、清々しいな、と思います。
人とぶつかる事を恐れず、必死に自分の大事なものを守ろうとする姿も、素晴らしいし、見習うべき所だな、と思いました。
完璧主義は生きづらい
昨日はブログを更新できませんでした。
初めは、”何でもいいから自分の思っている事のはけ口”のつもりで書いていましたが、
いつの間にか、欲張ってしまって、
「カッコいい事を書かなければ」とか「変な事書いちゃいけない」
と無意識の内に考えるようになっていました。
書くからには、いい記事を書きたいと思います。
いい記事って何でしょう?
私の中では、
「気持ちに嘘がない。ありのまま。」
「気づきや生きるヒントが書かれている。」
ものが良い記事。
でも、「気づきや生きるヒント」というのは、残念ながら思い浮かばない日もあります。
私は完璧を求める傾向があります。
頑張りすぎる傾向があります。
自分では全然気が付きませんでした。
人から言われて、「あ、そうかも」と気が付きました。
完璧を求めると、動けない。昨日の私のように(笑)
そして、生きづらい。
「気づきが無い日でも、気づき無し」
「調子が悪い日でも、調子が悪いなりの何か」
...と、ありのままを出したいです。
完璧主義はもう疲れました。
昨日より1ミリでも動けたらOK!
私がしっくり感じたものを書いてます
Facebookに私のブログ記事をシェアしています。
これを含めると、まだ5回目ですが、
「大丈夫?」とか「そんなに思いつめなくてもいいよ」と、心配のメッセージが何件かいただきました。
学生時代や仕事をしていた頃の私は、自分の考えを主張するなんて事はまるでなく、ましてやFacebookにブログを載せるなんて事、私自身ですら思いもしませんでした。現在の実物の私も、度々、まだビクビクして虚どってしまいます。
正直、Facebookにブログを載せる際は、まだ、毎回、”清水の舞台から飛び降りる”つもりで投稿してます(笑)
多分、生の私を知っている人は「おかしくなったんじゃ...」と感じている人もいるかもしれませんが、大丈夫です!
確かに狂ってしまったかもしれませんが、これからはもっと狂ったように生きたいと思っています。
私がブログに書いている事は、
私がこれから生きていく上で、こうする事が私自身の答えだと、現段階でしっくりと感じた事を書いてます。
(あくまで、現段階です。「諸行無常」(物事は常に移り変わっていく)という、言葉があるように、私がしっくりと感じている答えも、変わっていくと思います。)
誰かに同じように生きてほしいと言う事ではなく、
「こうすれば、自分がもっと良くなるんじゃないか」
「こう考えれば、もっと自分が楽になるんじゃないか、もっと行動できるんじゃないか」
と、「自分が、自分が」…と、私なりにしっくり感じた事を、私の答えとして書くようにしています。
もちろん、それが誰かの生きるヒントになるというのであれば、嬉しい限りです!
答えというのは、人それぞれで、「答えは自分の中にある」という言葉がやっとしっくりきた気がします。
「でも私はこう思う」とすぐに言う
私はそれてっ違うよなー、って事を時間を置いてから感じます。
即座に感じていても、無意識に”言わない選択”をしていると思います。
「あなたはこうなのね。でも私はこう思う。」とすぐさま自分の考えを言えるようになる事が目標の一つです。
多分、時間を置いてからであれば、今は頑張ったら言える気がします。(ちょっと前は言えなかった)
”すぐ言う”がポイント。
”すぐ言う”を頑張る。
(いつも食べ始めてから、写真を撮り忘れた事に気がつく…(//∇//))
これからも頑固にネチネチと生きます
柳のようにしなやかに、柔軟に、考えたり、行動したり、周りに順応する人に憧れてました。
子供の頃、親に「あんたは頑固やね~」と冗談交じりに言われました。その時は聞き流しましたが、社会人になってから、またもや「頑固やね」とか「細かすぎる」とか困った顔で言われたことがあります。
その体験を通じて、「頑固」=「融通が利かない」という事だと断定して、改善したくて、柔軟になるために「周りに合わせる」という行動をとってきました。(自分に自信がないこともあります。)
仕事を辞めた後、「頑固やね」と私に言った方の1人に「ヨガインストラクターになります!」と報告した時、その方から
『持ち前のねちっこさで頑張れ!お前の頑固でネチネチしたところは長所だ!』
と言われました。
何とか、今年、1月~3月にかけてヨガ教室を開催しました。途中、集客するためのチラシ配りがきつかったです。冬場だし、寒いし、雪も降ってくるし、しまいには吹雪になるし(笑)、坂道ばっかりで、くじけそうになりました。
その時に、先程の言葉を思い出し、配ることができました。
しかし、3月末の引っ越し以降、ヨガは毎朝やってるのですが、ヨガ教室を再開したいと人に言いながらも、それに向けて行動していない自分がいました。
「あんなに周りにやると豪語したのに、お金かけて資格を取ったのに、何をやっているんだ。でも、ヨガじゃなくても何かしたい、何か夢中になれる事を仕事にしたいけど、何も無い…」と動けない日々が続きましたが、あの言葉をいつも思い出し、ネチネチと探し続け、最近ようやく、また夢みたいなものを見つけました。
これからも頑固にネチネチと進んでいきます。