やめたら「いつか」は来ない。
ブログをまたまた書けない自分がいました。
気づきを書かなければ
良い事を書かなければ
あまり暗い事を書かない方が良いのではないか
自分の弱さをさらすことで誰かが不快な思いをするのではないか
自分が恥をかくのではないか
変な奴だと思われるのではないか
誰かの同情を誘ってエネルギーを奪ってしまうのではないか
…という自分がいました。
人目を気にして、自分を飾ろう、隠そうとしていました。
ホントよく、他人軸で完璧主義のドツボにはまるなぁ(笑)
本当は、「これが私だ」と自分を理解するために書く事が一番の目的だったのが、いつの間にかカッコつけようとして、目的からズレていました。
私には、「誰かの気づきのきっかけになりたい」だとか「いつか誰かの役に立ちたい」という欲があります。
自分に期待をしはじめています。
でも、そんな文章が思いつかなくて、中断の連続です。
だからと言って、本当にやめてしまったら、「いつか」は来ない。
やめなかったら「いつか」は来る、たぶん。(と自分に言い聞かせています。)
完璧じゃなくていい。ショボくていい。今の自分を出すことが重要。
まずは、自分のために、自分を鍛える。
気持ちを切り替える手段をもつ。
最近、ハマっている事があります。
それは、「子供の頭に”ポンポン”と手を置く」事です。
朝起きた時、
幼稚園バスに乗る時や帰ってきた時、
テレビを観ている時、
姉弟ゲンカをしていて助けを求めてきた時、
癇癪を起した時、
etc...
事あるごとにポンポンしてます。
何となく、子供の気持ちが落ち着いてくるような気がします。
何より、私自身が子供にエネルギーを送れているような、母親らしくなれてるような、そんな気持ちになります。
姉弟ケンカや癇癪を起した時、
以前だったら、こっちまでイライラしてきて大変な事になっていました。(何度「いい加減にしなさい!」とハンニャの形相で言った事か…)
最近はイライラはしますが(笑)、ポンポンしてあげると、子供だけでなく私自身の気持ちも落ち着いてきます。(ハンニャになる事も少なくなった。)
大人にも効果があるようで、
「自分で自分の頭に”ポンポン”と手を置く」のも良いです。
いや、すごく良い! ハマってます。
何となく疲れた時、
気分が落ち込んでいる時、
不安になっている時、
息詰まり感を感じた時、
「大丈夫、大丈夫。」とか「頑張ってるよー。」と心の中で唱えながら、自分で自分をポンポンして応援してます。
それだけで、気分が切り替えられるというか、気持ちが落ち着き、「自分OK」みたいな感覚になります。
下の記事にも書きましたが、悩んでいる時間はもったいないです。
時間だけでなく、”悩むエネルギー”も、もったいない!
だからこそ、自分なりの「気持ちを切り替える手段」を常備しておくのは大事だな、と思います。
ほんと不思議だなー。
— ちはこ (@ym_3place) 2017年7月14日
「頭に手をポンポンと置く」だけで、気持ちが落ち着いてくる。
これ、根拠は分かりませんが、メンターから教えて頂いた事で、すごく良いです。
すごくお手軽で簡単なので、もし、周りに元気のない人がいたら、良かったら教えてあげてください。
(もちろん、その人の頭に”ポンポン”と手を置いてあげるのも素敵です!)
(余談)
「元気が出るから」と旦那にお願いしてやってもらったけど、「・・・?・・・」という感じで、何故か効果は感じられなかったが、笑いのタネにはなりました。
うらやましい人は『目標』
春に小さい本棚を購入しました。
最初は隙間があったのですが、最近、ほぼ埋まってきました。
それも、ほぼ読んでない本で(笑)
ずっと前から、自分の成長のため、生きづらさ解消のヒントがを探し求めて色んな本を読みたくて、買ってはいるのですが、読むスピードがおそかったり時間管理が下手なのか、中々読めてません(笑)
でも、これからは、一日1分でもいいから、一日に3回、読む事を習慣にしたいです。
私の生きづらい理由の一つとして、
「他人と比較してしまい劣等感を感じる」
という事を以前、書きました。
私は、
生き生きとしててハツラツとしてる人、
冷静で包容力のある人、
頭が良くて説得力のある人、
自分に軸を持っている人、
堂々としている人、
あるいは、多少、感情的になりながらでも口論できる人達、etc...
…と、挙げるとキリがないのですが、そういう人達を見ると、「うらやましいな~」と思うと同時に「劣等感」を感じます。
人といちいち比較して「自分はなんてだめんなんだ」と思っていました。
そして、ほぼ誰を見ても、うらやましいと思うようになり、自分の周り360°がうらやましい人だらけで苦しくなっていきました。
なので、本を読んで、人との比較は無意味であることを腑に落としたいけど、なかなか読めないので、この前メンターの一人に
「人と比較しないためにはどうしたらいいか?」
を尋ねました。
帰ってきた言葉は
「自分が、うらやましいな、と思う人は単なる『目標』です。」
だった。
その時は、(だーかーらー、その『目標』を見て劣等感を感じるんだけど…(°_°))、と内心思っていました。
でも、今朝、ふと思ったんです。
「私の周りは『目標』だらけだな。」
「アレ?…ということは、私は今まで、『目標』となるようなステキな人達とばかり出会ってきたのか( ☼д☼)
そして、今も『目標』に囲まれているんじゃないか( ☼д☼)」
そう思うと、自分がすごくラッキーで幸せ者だと感じました。
長年、他人と比較して、劣等感に苦しんできたけど、「羨ましいな」と思う人を「目標」と思ったら、私の周りは目標だらけだった。
— ちはこ (@ym_3place) 2017年7月12日
目標にしたい人達に囲まれて生きる、これって、今までも自分は幸せだったし、今も多分これからも幸せだという事になるんじゃ⁈( ☼д☼)
— ちはこ (@ym_3place) 2017年7月12日
これからは、「うらやましいと思っている人の何がうらやましいのか」、をハッキリさせて『目標』にしたいです。
悩む時間はもったいなかった!
昨日、自分の過去記事を見返していて、そこかしこに「私ってかわいそうでしょ?」的な表現が散りばめられていて、とても恥ずかしくなった( ゚Д゚)
まるで、少女マンガのような「原作・悲劇のヒロイン:ちはこ」みたいだ。あー、恥ずかしい( ゚Д゚)
せめて少年マンガのように「原作・主人公:ちはこ」くらいに、情熱を持ちながら表現できるようになりたいです。(わかりにく例えですみません。)
私は自分の課題を見つけると、感傷的になってしまうクセがあるようです。
昨日の記事で、
「私は、こうして不完全ながらも、今よりも良くなろうと課題を見つけ出し、悩み考え、もがきながら生きる自分が好きだったんだ」
と書いています。
これを見たある方から、「この中の言葉を変えるだけで、その行為の質が全然違うものになる」と教えて頂きました。
この中の「悩み考え」は「考え」にして、「もがきながら」は「計画してそれを実行しながら」にしてみると、確かに全然違うな、と思いました。
あれ?「あーどうしよう~、なんでこんな事になってしまったんだ!」と自暴自棄になって悩む時間を、「じゃあ、どうする?!」と自分に問いかけ、解決策を考えた方が効率が良い。
悩む時間はもったいない時間だったんだ!!( ゚Д゚)
( あー私はなんてもったいない時間を過ごしてきたんだろう...)と早速思ってしまった自分がいますが、そうではなく、「じゃあ、これからどうする?!」ですね!
これからは、「悩まない」。
「あーどうしよう!なんでこんな事になってしまったんだ!」と悩む時間があったら、「じゃあ、どうする?!」と自問自答してして解決策を考えた方が効率的‼️
— ちはこ (@ym_3place) 2017年7月11日
ということで、私の趣味は「自分の課題を見つけ出し、解決策を考え行動する事」に訂正します。
私は自分の事が好きだった。
一昨日、ある方から、
「あなたは悩みを作り出してる。或いは、悩むのが好きで趣味なのかもね。」
と言われた。
正直、「え?何言ってんの?そんな訳ない。好きで悩む人間なんていないって。」と心の中で抵抗を感じた。
確かに、自分の内面の成長について欠乏感を持ち、なんとかしようと日々考えているけど、悩むのが好きって...ありえんわ。
...そんなこんなで、モヤモヤしたまま一晩がたち、昨日の午後、車の運転中に、ふと、
「ああ、そうか。私は、こうして不完全ながらも、今よりも良くなろうと課題を見つけ出し、悩み考え、もがきながら生きる自分が好きだったんだ」
と思った。
そして、ほわっとハートが温かくなるのを感じ、今、自分の内面について思う存分考えられている日々や、見守ってくれる人達がいる事に、改めてありがたさを感じた。
...それにしても、別の言い方をすると、”自分に酔っている”状態で、まさしく”自作自演”だという事になる。こうなると、とても恥ずかしいのですが、恥ずかしいまま進もうと思います。(*´ω`*)
【結論】
私は悩むのが好きで趣味だった。そのため自分で悩みを次々に生み出している。(笑)
(できれば、”悩み”→”考える”と言いたい。)
そして、自分の事が好きだと気が付き始めた。...ような気がする。
そうか…私はこうして、ショボショボながらも良くなろうと、悩んだり、もがいている自分が好きなんだ。
— ちはこ (@ym_3place) 2017年7月9日
(気のせいではありませんように!)
Win-Winを目指す。
今日は七夕だから、せめて明るいブログを書こう、と思ったけど、やっぱりやめます!
今日も心の闇を出します(笑)
私は自分の行動や発言を人に指摘されたとき、
何故か、「自分は間違っていた!」と過剰反応してしまい、相手の意見を優先させてしまうクセがあります。
その度に、「もう誰にも指摘されまい!責められまい!」と思い、目を光らせてきました。
でも、どんなに気を付けても、他人から指摘される事はなくなりません。
今思えば、 その指摘は『あくまでただの意見』であって、「それが100点満点の正解だ」と鵜呑みにする事はなかったな、と思います。
最初は、クラスのリーダー的な存在の人や、威圧的な人や、自信満々の人から言われたのが始まりだったと思いますが、いつの間にか、常に、友人からの意見でも、「自分が間違っていて、相手が正しい」と思うようになり、ほぼ何をするにしても自信をもつ事が出来なくなってきたように思います。(家族は大丈夫です。)
そうこうしている内に、
”自分を信じられない”という状態になってしまい、
「どうせ自分の意見は間違っているだろうから」
「どうせ自分の意見は大したことないから」
「自分さえ我慢すれば、この場が収まるから」
と、自分に言い訳し、自分のプライドを粗末にして、自分を殺してきたものだから生きづらいのだと思う。
相手の意見を尊重する事も大事なのだろうけど、かといって、自分のプライドを粗末にする事まではしなくても良かったな、と思う。
何でこんな事してきたのか?
— ちはこ (@ym_3place) 2017年7月6日
人から何か言われた時、何故か「相手の意見が正しくて、自分の意見(した事)が間違ってる」と思ってきた。その度に誰にも責められないようにするにはどうするのが正解かを探してきた。そんなの無理だよねぇ。
これからは、自分にとって、どうでもいいという時はどうでもいいけど、
ここぞという時は、Win-Winを目指していこうと思います。
早く楽になりたい!
なぜ「このままではだめだ」と思ったのか?
子供は今もとてもかわいいけど、
生きやすくなった時に子供を見た時に感じる”かわいい”はどんな感じだろう。
単純に知りたいです。
私は、人とぶつかるのが怖くて自分の気持ちを言えなかったり、人と比較して劣等感を感じてたりして、生きづらい訳ですが、このままではだめだと思って、「何としても変わるってやる」と決めて試行錯誤をしています。
なぜこのままではだめだと思ったかというと、一言で言うと
「モウ、イヤダ!!!!!」と思ったからです。
これからもこの調子で生きていくのか?
これからも他人にとって良い人でいるのか?
これからも人の顔色を伺っていきるのか?
これからも本音を言えずに生きていくのか?
これからも自分を卑下して生きていくのか?
これからも怒りや悲しみは無かったことにするのか?
「この先何十年もそうやって生きていくのは、もうごめんだ!」と思ったからです。
心に膜がかかった感じで、喜びや楽しいという感情を感じる時も、何枚もの膜越しに感じているイメージです。
心から笑いたい。
心から生きてる素晴らしさというものを感じたい。
子供は今もとてもかわいいけど、
生きやすくなった時に子供を見た時に感じる”かわいい”はどんな感じだろう。
生きやすくなった時に見る景色はどんな感じなのか。
単純に知りたい。
今に集中しきってみたい。
早く楽になりたい!